今戸焼・今戸人形について
今戸焼について②
一昔前までは、「今戸焼」といえば、落語好きや江戸趣味の方でなくても、関東地方一円で通用した言葉でし「今戸焼」は浅草今戸町を中心に隅田川沿岸に栄えた江戸東京の焼き物のブランド名で、硬焼の食器類を「瀬戸物」と呼ぶのに対して、素焼きや楽焼の雑器類を「今戸焼」と呼んでいたようです。また「今戸焼」からは「今戸焼の土人形」も生まれ、身近に愛されていました。現在では東京の人でも「今川焼き」のことですか?という人にも随分出会います。ここでは、そうした「今戸焼」についてお話したいと思います。 庵主 吉田義和
前のページでは、江戸市中の瓦の需要に伴って今戸の窯業が発展するところまで述べました。今戸では、瓦の他にも日常雑器の様々なものが作られていましたが、中には工芸品的なものまで生まれるようになりました。貞享年間中には白井半七が点茶用の土風炉を創り、2代目半七が享保頃、瓦に釉薬を施した楽焼に類するものを試作して以降、代々の半七は工芸的にも優れたものを世に残したということです。
享保年間より瓦と土器の需要の増大は、今戸神社(旧・今戸八幡)境内に残る
狛犬一対の基壇に見られる、「焙烙屋」「火鉢屋」「土器屋」42名の名前
にも
測り知れます。これには、焙烙、火鉢、土器、と職種が分かれているように見えますが、実際には、画然とした分業ではなかったのではないか、といわれています。つまり、火鉢屋は土器も作り、焙烙屋も火鉢を作るなど、需要に対してさまざまな製品を生産していたのではないでしょうか?
さまざまな製品の生産の中から、土人形を作る者が出てくるようになります。
はじめは、雑器の生産の片手間に作られていたものが、需要の増加によって
人形を専門に生産する人たちです。これが、今日「今戸人形」と呼ばれる土人形のはじまりです。
文化・文政年間には、もともと湿地帯や田圃であった地域だった隅田川の対岸の寺島村(向島)近辺が、江戸市民の手ごろな行楽地として発展します。百花園の開園をはじめ、寺社仏閣詣で、墨堤の桜など、文人墨客から、一般市民まで幅広い人々を迎え、料亭などもできるようになります。
また、浅草の観音様、お酉さま、猿若町への芝居見物、吉原通いなど、隅田川の両岸は、おでかけスポットとして注目されるようになります。錦絵に、江戸市中の名所を描いた物の中には、隅田川と煙の立ちあがる今戸の窯を描いたものも相当な数見られますが、この背景には、隅田川人気に伴った「今戸焼」というブランドの確立が想像できます。
隅田川対岸の百花園内では、「隅田川焼」「百花園焼」創窯され、ひとつの名産品として迎えられるのと同時に今戸でも、上記、代々の白井半七による工芸的な作品が名声を挙げました。しかし、今戸焼は従来の日常生活の必需品である土器や簡単な施釉による雑器の生産が主体で、注文により、何でも作ったということです。
一昔前まで、世間一般にイメージされていた「今戸焼」は、土人形を含め、大衆的であるのと同時に「粗末な」、ごく身近なものだったのではないでしょうか?江戸の古典落語の演目の「骨の賽(今戸の狐)」、「今戸焼」などは、こうした背景をもって生まれたものでしょう。
「今戸瓦竃」
広重画 年代不詳
(描かれている窯は、達磨窯ではなさそうです。)
墨田川焼
都鳥香合と盃
幕末? スミタ川 印
都鳥徳利
寿ミ田川 半七 印
明治~大正?7代半七?
隅田川炉台
橋本三治郎 印
幕末~明治はじめ?
?代 橋本三治郎 作
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