今戸人形
瓦や土器の生産から始まった今戸焼。その発展の中で、土焼の人形が生まれました。「今戸人形」です。今日でこそ「今戸人形」という名称で通っていますが、先人から聞いた話によれば、明治時代には「今戸の恵比寿大黒」とか「今戸の狐」、「今戸の福助」など「今戸焼の○○」という呼び方をしていて、あくまで「今戸焼」の一部であり、「今戸人形」という呼び方はしなかったそうです。
人形生産のはじめについて、いつから、とはっきりしたことはわかりませんが元禄3年板行の「増補江戸惣鹿子名所大全」問屋大概中に土人形の問屋として「浅草茅町一丁目ひなや七兵衛」の名が出てくるそうです。しかし、今戸人形も全国に流通してその土地々での土人形の発生させた、京都伏見人形を手本に発達したものであることは周知のことで、この「ひなや七兵衛」で扱っていた
土人形が、伏見から取り寄せていたものか、或いは既に、江戸で作られていたものかは知るよしもありません。 しかし、近年の東京での再開発の際発掘された近世遺跡から、明らかに東京の土で作られたと思われる土人形とともにかなりの数の伏見人形や白肉(しらじし)人形が出土しており、今戸人形の発生時期より前から、今戸人形の隆盛期に至るまで、伏見人形は下りものとして流通していたと思われます。
「半日閑話」巻一四(安永7年)によれば「 ○ 深草焼 本所みどり町伏見屋
先右衛門はじめて深草焼をひさく」とあり、それより前の安永2年板行の「江都
二色」には土鈴や常盤御前の人形が描かれており、当時既に市井に流通していたことが偲ばれ、伏見人形が安永頃には江戸に流入しており、江戸での
土人形の生産に影響を与えていたことが想像されます。
天明頃の川柳に「西行と五重塔をほしかため」(「柳多留」一九編) とあり、伏見人形の代表的な人形が天明頃江戸でも模倣されていた、ということになります。
しかし、伏見人形を、母胎としながらも次第に江戸市中の話題や流行に乗じて今戸人形独自の展開が始まります。
文化初年流行の「叶福助」、天保12年の初代横綱・「不知火諾右衛門」の姿、
現在までのところ最も古い招き猫であるとか、招き猫の起源、元祖と言われている嘉永5年の「丸〆猫」、芝居で取り上げられたことによって流行した拳遊びの人形化、「伊勢屋 稲荷に 犬の糞」とまで言われた稲荷信仰の大流行に便乗した狐の人形の数々など、伏見人形を元型としながらも、江戸に好みに合わせて
開発された製品が少なくありません。また、価格の上でも、上手の人形に手の届かない大衆向け、子供の手遊び向けの製品が次々と登場しました。 |
|
|