かつては日本の各地で、土焼きの人形や張り子の人形、練り物の人形が生産され、、その土地ごとに特徴を持って作られましたが、人形の発生と発達の過程で当時の古文書や文芸、芸能に記録されている産地というと、限られてくるのではないでしょうか?その点、江戸・東京という大都市を控えて生まれた今戸焼と人形は、錦絵等の絵画や、古文書、人情本、川柳などの文学、落語、歌舞伎などの芸能にも記録されました。
式亭三馬の「諢話浮世風呂」(文化6年)2編巻下 には「是程おとなしくお判りだものを、ねえお嬢さんこの御褒美にはなめ人形に、なんでも4文の人形か、」とあります。「なめ人形」とは、鉛の透明釉を施した人形で、口に含んでも色落ちしないので流行したものですが、後に明治になって、鉛の釉が人体に有害であることから使用が禁止されたものです。この作例は東京の近世遺跡からよく出土しています。
文化頃の川柳に
「村の嫁 今戸のでくで 雛まつり」(「柳多留」二十一編)とあるのは、おそらく
今戸で大量に作られた「裃雛」の対のことで、比較的高価であった衣装雛の代わりに今戸の土雛を飾った様子を滑稽に表現したものと思われます。この「裃雛」は、別名「下総雛」[ドガミシモ」「今戸のあねさま」とも呼ばれ、現在の千葉県、下総、上総地方で大量に消費されたといいますし、東京の近世遺跡からもよく出土しており、遠くは東北地方の旧家に伝えられたものが見られように、かなり出回っていたもののようです。
柳亭種彦の「偐紫田舎源氏」(文政14年)第5編の序文に、光氏の系図を
一文人形によって表した図があります。
この「一文人形」というのは、ひとつ鐚銭一文で売られた、指先ほどの小さな
もので、子供自身が小遣いで買えた廉価な人形の代表的なものだったようです。廉価な代わりに、生産の手間をできるだけかけない粗末なものであったもののようですが、それを系図の人物に見立てたところに種彦のユーモアのセンスがあったと言われています。
また曲亭馬琴の「今戸みやげ女西行」(文政11年)という著作もあります。タイトルがそのものズバリですが、「西行」は伏見人形をもとに、今戸でも大量に作られた人形です。
落語の「骨の賽(今戸の狐)」に出てくるのは、稲荷に奉納された「鉄砲狐」
(その形が鉄砲の弾の形に似ているから、そう呼ばれたなどの説がある狐の型)、「今戸焼」のサゲに出てくる「今戸の福助」もまた、多く作られたもので、種類もいろいろありました。
歌舞伎では、舞台上で演じられた拳遊びが市井で流行したのを、人形化した「狐拳」「虫拳」などの人形、玩具が作られた他、現在でも時折上演される鶴屋南北の「浮世柄比翼稲妻」(今日上演される鈴が森、痣娘、鞘当などを含む)の初演(文政6年)の台本に「大切・裏店今戸人形屋の場」というシーンが残っていますが、結局のところ、実際の上演には至りませんでした。言わば、幻の場面となったわけです、そのため絵本番付にはありませんが、台本は伝わっています。
このように絵画、文芸、芸能に取り上げられた背景には、いかに今戸の人形が大衆的で日常生活に身近であったかを裏付けるものだと思います。こうして、今戸の土人形は江戸時代の後期には、大衆に歓迎され、需要と生産のピークを迎えました。
この今戸人形の全盛時代には、著名な人形作者が現れ、名前を残しています。安政年間の柿沢一瓶と、その弟子の菊清(小捻りの名人とされた)、
また、同時代から明治はじめにかけて戸沢弁司(江戸薩摩焼の作者としても知られていたという。)などで、一瓶の義兄尾張屋(金沢)兼吉は今戸八幡の狛犬の基壇に記されている金沢喜太郎から数えて5代目。兼吉と同時代に猫の脚炉を考案したとされる木村清次郎(作根弁次郎)、人形屋染、木地師
万勝、楽市、そば善、人形屋勇次郎、土直あぶ惣(するがや惣三郎)、人形屋利助らの名が記録されています。(但し、これらの工人名は、有坂与太郎の著作に記されているのであって、その出典は明らかではありません。古老からの聞き取りによるのか、往時の今戸の人形作者の地図も出ています。今日の私たちにとっては、出典や根拠など知る術もなく、記録を手掛かりとするしかないと思います。)
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