維新後西南戦争の頃までも今戸人形の景気は悪くなかったといいます。
浅草の観音様境内の仁王門下に一か所、神馬殿寄りの床店、鐘楼の下、三社様の前には丸〆猫屋があったといいます。これらは明治15年に床店が取り払いになるまで営業していたようです。その後も縁日には必ず2~3軒のの露店が出ていた、と尾張屋春吉翁は後に語っています。
しかし、全盛期の作者が後継者を持たず他界が相次ぎ、維新後登場したブリキやセルロイド製、磁器、半磁器製の人形玩具に押され、今戸人形の生産は低下していきます。今戸人形の多くが素焼きに胡粉下地に染料や顔料で彩色されたもので、壊れやすいことが、子供の手遊び品として「疳の虫の根が切れる」と歓迎されていたものが、新玩具の登場によって、「壊れやすいからいけない。」と言われるようになったのと同時に、彩色に使われていた顔料や有鉛の釉が人体に害であることがわかり、使用を禁止されたことも衰退の原因となりました。
辛うじて命脈を保っていたこの時期の作者としては、前記尾張屋5代目兼吉の養子6代目兼吉(政五郎)とその子7代目春吉翁(明治元年~昭和19年)、人形屋勇次郎の後継者市川梅次郎、そば善の娘が本所辺りで歳の市の小判を作っていたこと、土直ことするがや惣三郎が利助の亡き後、その妻を娶り、佐野屋と号し、娘に業を伝えていたこと(鉄砲狐専門)、あぶ惣の後継者鈴木たつが芋屋を営みながら、口入稲荷の狐や貯金玉、紅丑等を作っていたことなどが記録されています。また、今戸で営業していた2代目井上良斎の門下で高野安次郎という人が大正10年頃に今戸から寺島町(向島)へ移り、雑器の他に貯金玉を作っていたということです。
尾張屋春吉翁は、明治の終わりに人形が売れなくなったため、型を自宅の庭に埋め、箱庭細工制作に転じていましたが、関東大震災後の区画整理の折、土中より、以前埋めておいた人形の型が掘り出され、また江戸趣味家、
人形愛好家などの需めに応じて、人形作りを再開し最後の今戸人形師として
知られるところとなりました。その人形は、往時の今戸に比べて繊細過ぎるという声もあったようですが、配色など往時のやり方を正しく受け継いでいたことが現存する作品からわかります。しかし昭和19年に他界されました。
以上は有坂与太郎著「郷土玩具大成・東京編」や「鯛ぐるま」等の記事を参考にしたものです。しかし、実際には、これらの記事から洩れている作者も
大勢いたのではないかと思われます。また近年の都内で発見された近世遺跡から、人形玩具を制作していたのではないかとも考えられる遺物も出土しています。武家屋敷の敷地内から型や製品が大量に出ることがあるのです。御庭焼は上流階級の人々のために生まれた焼き物ですが、一般庶民向けの人形玩具が下級武士の手内職で作られていたこともあったのか?これからの展開が楽しみです。
戦後は今戸人形の廃絶を惜しんだ愛好家が、防空壕に保管したため、色の落ちてしまった、春吉翁作の人形を今戸に一軒だけ残った白井孝一氏に預け
人形の型どりし再興を促し、現在に至っていると聞いています。
さて、「今戸焼」から生まれた「今戸人形」ではありますが、これまで接したことのある人形の中には、焼きの入っていないものもあり、焼かれていないから今戸人形ではない、とも言えないように思われます。鉄砲狐など、手間を省略したもの、一文人形の類と思われるもの、手捻りによる人形などがそれで、窯を持たない者も、身近な土で人形や玩具を作って糊口を凌いでいたのではないかと思われます。また、有坂与太郎の著作に出てくる「楽榮人形」は焼きが入っていますがこれらも仲間に入ってもよいのでは、と考えています。
人形・玩具となると、窯印のあるものもあることはあるのですが、むしろないもののほうが圧倒的に多く、こうなるとどこまでが今戸でそうではないか、という線引きは、その人によって異なることでしょう。
結局のところ、ここでは一個人としての思い込みで「今戸」と考えているものを取りあげています。独断をお許しください。
昔の今戸人形についてはブログ「今戸人形」のカテゴリーでもとりあげていますので、お時間ありましたらご覧ください。→
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